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山本哲士:吉本隆明「日本経済を考える」を<読む>

吉本隆明の講演を抜粋した本『吉本隆明の声と言葉』を購入し、購入者限定でWeb公開されている「日本経済を考える」を聞いて、わたしの感想と思考をここunimallでは公開しておこう。貴重な講演であるものを、ここでは生かしたい。
講演は、1989年ごろであるとおもう。

1.経済学は、「支配者の学だ」

経済学は、所詮「支配者の学だ」という吉本隆明の指摘にはっとさせられた。こういう鋭さが、いつも吉本隆明にはある。反体制だろうとそれは支配者の学だという。そのとおりだ。また、それに対して吉本は、一般大衆からの経済を論じたいという。

ここを、わたしはどうするかというと、二つの道で考えている。
第一は、指導者・支配者の学にたいしてその「客観化をさらに客観化する」という「指導の指導」の観点からかんがえなければならない。指導者を指導することで、支配を逆支配していくことだ。これが、反権力を超える「非権力」の経済理論となる。マネジメント論が実践論になっていくが、経済分析自体が逆転しなければならない。

もうひとつは、一般大衆ではなく、「わたし」というプライベートな立場から経済を語ることだ。これは、消費者として語ることでも、労働者として語ることでもない、「生活者」「暮らす者」として語ることだ。これは、生活環境の経済理論となる。

この二つの観点から経済を語る、この二つをある次元に統合させ、一元化するのだが、そのときいろいろな「非」の経済哲学をはたらかせていかねばならない。これがわたしの「ホスピタリティ経済」論になる。一般大衆から語ることは、同じものの反転にしかならないという認知がわたしにはある。つまり、2極に対立しあうという構造からそれはでていかないからだ。わたしは、別の経済地盤を創造していかねばならないとなる。経済の地盤自体を変えることだ。
吉本隆明の鋭い示唆からは、こういう前進が可能になる。思想的指針を理論的な表出へと深められるのだ。


2.3.円高ドル安:グローバル経済における企業と生活者

円高ドル安は、労働者賃金の上昇、自分の暮らしとどうかかわっているのか、そこが大事で、円高ドル安という事態そのものではない。また、ほんの13%の1部企業が直接かかわっていることで、一般大衆の現実にはかかわりないという。

日本の賃金上昇は、他の先進国にくらべて低い、労働者は耐えるという徳が日本人にはある、これは生活向上に円高が関与していない実例だ。つまり、生活大衆にまで円高は還元されていないということだ。
こういう考え方にはなにが欠けているのか?

円高は、生活者としてどこにかかわっているかというと、海外で暮らしたとき、海外旅行したとき、わたしたちには直接にかかわってみえてくる。1ドルが100円になると、200円のときの半額でモノが買える、暮らせる。わたしのように海外生活を多くしている者には、直接の利益になってくる。
他方、輸出企業にとっては、1万ドル儲けたとすると、その利益は半分に減ってしまう。
こういう、逆転が、実際には、ナショナル経済とグローバル経済との関係でおきている。前者が自分の暮らしのことで、後者は自分の暮らしに関係ない、といえるのだろうか? 日本国内で暮らしている圧倒的多数にはかかわりない、といえるのだろうか?

日本航空が、ブラジルで稼いだ利益を日本へもってくることができない、ということが起きている。これは、いわば低開発国で稼いだはなしだ。USAで稼いだこととどうちがうのか?

ポイントは、海外進出企業のその経営の仕方が、問題であって、その利益を、日本社会へ還元させていくという様式を日本がつくれないで、海外国の法的規制に従属しかしていない、この経営力のなさが問題なのだ。生活者自体に問題があるのではない、グローバル経済経営がなされえていない、戦略がない、ここが問題なのだ。
国家がグローバル・ファイナンスができていない。つまり、国際利益を日本社会へ還元させるという戦略をもちえていない、また、場所企業が輸出している、その場所経済への利益還元をなしえていない、こういうことが「指導の指導」として、根本的な問題なのだ。1部経済企業の収支問題にしかなっていないことが問題なのだ。ただ、輸出して儲けるということしかできていない。

さらに、日本が、海外投資をなしえていない、小金持ちがいるだけで、総体として海外投資経済活動ができていない、ただ少額の株の売り買いしかしえていない、ビジネスを育てるということがなされていない、これが問題なのだ。生活者として消費投資しかできていない、生産・創造投資がなされていない。
円高は、大企業の下請け会社へしわ寄せが自然過程的にくるだけの無策が問題なのだ。ここは、一般大衆の生活にもろにひびいてきている。

グローバル経済は、わたしたちの食品をみてみればいい、海外製品がどれほど卓上にならんでいるかみてみればいい、直接の場になってしまっている。原料までいれれば、深刻な事態にまでなっている、そこを見ないでいるわけにはいくまい。米まで、忍び込んでいる。食糧自給がなされえていない。車のガソリンでさえそうだ。
グローバル経済の観点が吉本には欠落しているが、これは生活者に自覚がないほど、実際には忍び込んでいる、入り込んでいる。
生活者からみて、国民経済とグローバル経済との関係が、既存の在り方においては利益となっていない、こういう組み立てが問題なのだ。

ここは、場所経済がグローバル経済との直接性を構築せねばならないという課題としてあることで、ナショナル経済がそれをサポートするという体制になっていかないと成立しない。地銀がまったく機能しえていない、中央銀行の従属代行ファイナンスしかできていないからこうなっている。

経済とは、本質的に世界経済でしかない。この世界経済を、産業的な生産様式でやっているだけだからだめなのだ。
グローバル経済が、日々の生活にいかに関与しているか、その現実を認識していくことは必要である。とくに、衣食住において、それはもはや間接的ではない。

生活者が世界に目を閉じていることはもはやできない。世界に目をむけることが、特権階級だなんぞという考え方がもうだめだ。生活者は、国家よりも世界をみていかねばならない、それは、自らの場所経済=地球経済を生活者の生活環境として自覚的に構築していかないとだめだ。

これは、まさに吉本のいう円高ドル安という現象だけのはなしではない、ということなのだが、それをみないということではなく、世界総体をみなければならないという生活者自身の問題であると、開いていかねばならないのだ。それには、労働者生活という領域ではなく、生活者、場所住民=地球住民という観点をいれなければならない。世界経済はどこか天空にある問題ではない、自分の足元の環境の問題である。


4.知ることが大事

吉本隆明は、経済の問題は生活大衆には給与のことでしかなくなる、経済はくらしにとって重要な課題ではないといっている。ここは、プラスとマイナスと注意深く考えていかねばならない。そして、「知る」ということなしに、その課題を克服していくことはできない、知ることは大事だと。

たしかに、経済が経営者にとって利益の問題でしかなく、労働者にとって給料の問題でしかなくなっている、そうさせるのは商品経済、交換経済だからそうなっており、そういう次元である限り重要な問題ではない、そのとおりだ。だが、経済の本質は、交換経済だけではない、商品経済だけではない、それをこえるには「経済とは何であるのか」を「知って」いかねばならない。

経済とは、文化経済であり、環境経済であり、つまるところ生活経済である。生活経済は、場所経済とならない限りリアルなものとはならない。産業国民経済であるかぎり、給与の問題でしかなくなっていく。そして消費者としての物価の問題でしかなくなっていく。これが、問題なのだ。作るということに関与していかなくなっていく。会社人間でさえ、作るということが分からなくなっていく。
そして、商品販売が社会生活でしかないとなっていく。商品の物象化が現実の物象化にまでいたっていく。これは、現実であるが、社会現実であって、生活現実そのものではない、ということを吉本は言っているのだ。
場所経済とならないかぎり、経済はいつまでも自分の問題とはならない。ここを「知る」ことだ。
そうでないと、環境経済とは消費生活における消費財の節約という問題でしかない状態になる。給与と節約としかならない。経済が、創造であること、暮らしを作るものであることが消えてしまったママになる。


5.6.農業問題

ここで、吉本隆明は農業問題にふれる。農業問題が日本経済の根幹であるかのような議論はペテンである、主要問題ではないというのだ。それは、農業人口が圧倒的にサラリーマン農業であって、専業農家は15%に満たない、この少数は、少数において深刻な課題ではあるが、主要な経済問題ではない、米の自由化がなされていけば、一時的な混乱はおきようがある均衡に達するはずだし、農家は必然的に減っていくというのだ。都市部の農業地を住宅地にしていけばいいという経済学者たちの言には一理あり、また、農業問題は自分自身の問題ではないと認識することが大事だと。

ここには、米の自由化というグローバル経済の要素がはいっており、それは必然過程であるかのような言述となっている。
わたしからみて、ここには、場所経済がないことからの時代趨勢にプラスをみる吉本隆明の考えになっている。
場所経済の、主要要素に農業経済ははいる。食糧自給という問題だけではない、環境経済としての農業がはいる。農業と工業との共存は、環境経済の基本になるが、商業化された農業ではない、生活農業である。また、他方、農協という商業<社会>主義は、解体されてしかるべきであり、すでにすすんでいるが、農業法人化という会社経営としての農業は主要な課題となる。食べ物をどうつくるかは、場所住民にとって、漁業とともに重要な生活課題だ。農地を宅地化するという次元のはなしではないし、米の自由化という価格のはなしではない。
何を吉本隆明はいいたいのかというと、現行の農業問題は、支配者のペテンのはなしであって、それにだまされるなということ、これはそうだ。しかし、農業の問題を、生活者の問題として構成しなおさねばならないのは、生活者の生活環境の問題であるということ、そこへきりかえろ、というようにわたしは理解する。
それは、場所経済としての農業の興隆である。農業の文化技術経済開発である。


7.8.

円高ドル安、米の自由化と農業問題、こういうことを主要課題だとしていくと、国家主義にしかいきつかない、国家社会主義、一国社会国家主義、つまりスターリニズムにしかならないと、吉本隆明は警告する。そのとおりだ。
だが、国家社会主義は、国家、支配者からうみだされるのではない、そういう次元にもはやない、社会国家主義は、<社会>そのものからうみだされる、社会当事者、つまり一般大衆からうみだされる、この認識がグローバル消費社会が不可避にうみだしている次元である。

すでに、大組織、大企業、大学、官僚行政は、スターリニズム化しているのも、世界大変動への反動として自己組織をまもるために、閉じた<社会>イズムになって、自己組織の全体主義をそのまま<社会>規則化して社会全体主義になっている。生活者になりえていない宙づり状態が、消費者利害をまもるべく社会規則従属のポストモダンファシズムへとはいっている。

吉本隆明は、学生たちに、知ること、理解することの重要性を啓蒙的に語っている。自分の実感を信頼せよ、そのうえで世界を知ることが大事だと。だが、その学生たちは、二〇〇七年の時点で、もはや、知ること理解することを放棄して、「不能化の意思」をもって、学ばない、知ろうとしない、理解しようとしない、という主体性のところまできている、これは支配の結果ではない、自己利益において不能化であることに利があるとふんでいるのだ。実感が、もはや、自分にはなくなっているところまで、社会によって植民地化されている。

生活環境が、場所にないからだ、場所=地球が抽象化され、国民経済がリアルであるという物象化にもうはいってしまっている。国家主義を可能にするもの、それは<社会イズム>である。社会イズムは、一般大衆によって支えられる。自分がいない、社会優先があるのみの生活だ。


わたしは、吉本隆明を批判しているのではない、その思想地平上からひらかれる、次の「知」への次元をひらいている、そうでないと吉本思想は生き得ない。本質は正鵠をえている、状況認知が思想自己表出の鋭さの分、幾分ぶれる、だがそこには新たな理論地平がひらかれていく可能条件があり、そこが開かれていかないと、本質の正当性が指示性をもちえなくなっていく、そこにわたしは世界線の理論水準から思想をいかす次元をひらいている。


追記(※注)

本コメントを書いたのが、8月であった。金融危機がその後、突如として訪れた。
最初の犠牲者が、非正規雇用者たちの契約打ち切りとして直撃した。下請け工場がダメージを受け、またトヨタをはじめ基幹企業は大きな赤字へといたるはめになったが大企業では経営責任がまったく問われていない。無策の結果であることがないがしろにされて、弱者への負荷が押し付けられている。

生活への直撃は、さまざまな形で円高において現れているのも、それは円高という個別の問題ではない、リンクする経済諸関係総体の問題であるからだ。グローバル経済化が、生活の足元にまで及んでいることの実際が出現した。
もはや、「支配の経済学」では、こうした事態に対応はできない。産業商品経済の生産様式自体が破綻したということである。経済基盤の転換のときであるのだが、既存の枠内での対処しかなされようとしていない。給与対策しかとられていない。<賃労働‐資本>関係ではもはや解決ができない閾にはいっているのだ。

経済そのものの転換が要されているのである。吉本思想の自己表出力をふまえた上で、そこにとどまるのではなく、指示表出がグローバル化していることを含んで、その根源的な転換を考えていくことが要されている。

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