トップページ 吉本隆明を読む 橋爪大三郎 氏の『心的現象論本論』書評:『週刊読書人』 2008年10月3日号より

1.

橋爪大三郎 氏の『心的現象論本論』書評
『週刊読書人』2008年10月3日号より 

かつて書かれたことのない、類例のない書物:「心的現象」を正面から論じる
言葉と言葉でないものとの関係に照準して

静かな独自の意志

1971年に『心的現象論序説』が北洋社から出版されたものの、その続きがずっと公刊されないままで来た、本編にあたる『心的現象論本論』が、このほど出版された。30年あまりにわたって雑誌『試行』に連載されたままのテキストを収録する、2段組541頁の大冊である。
『心的現象論』は、『共同幻想論』『言語にとって美とはなにか』と並んで3部作をなすものだと、当時の多くの読者は受け取っていた。違いはと言えば、『共同幻想論』が「逆立テーゼ」(個体幻想、対幻想と共同幻想とは逆立する)、『言語美』が「自己表出/指示表出」を掲げ、幻想領域や言語表現の領域にある「理論」を樹立しようとするものなのに対し、『心的現象論』はことさらそのような「理論」(テーゼ)を立てないようにしているようにみえることである。推進力がないのにどこまでも滑空を続けるグライダーのような、静かな独自の意志を感じさせる。
この違いが、完結の仕方にも表れている。『共同幻想論』『言語美』は、それぞれ単行本としてすばやく刊行された。それに対して『心的現象論』は、商業雑誌の連載ではないせいもあって、いつ終わるともなく書き続けられ、ついに『試行』の終刊とともに中断した。今回のテキストも、最後に「(未完)」とある。発表の媒体を『試行』に定めた段階で、こうした違いも意識されていたかもしれない。


禁欲的な強い自制

『心的現象論』は、どういう点が特別であったのか。
まず、「心的現象」を扱うこと自体が斬新である。吉本隆明氏は、60年代を通じて、マルクス主義の革新者とみなされており、多くの読者もそのような期待をもっていた。マルクス主義は、唯物論だから、「心」のような観念の領域をそれ自体として論じられると想定しない。その想定をくつがえし、「心的現象」を正面から主題的に論じることがそもそも、画期的なことだった。それは、マルクス主義の革新であり、むしろマルクス主義との決別だった。

第2に、終始「科学的」であろうとしていること。
心的領域を論ずるためのデータはすべて、実験や症例のかたちで提示されている。精神医学者の報告する症例や、民族誌のデータ、歴史的なデータが、本文のあちこちに挿入してあり、コメントが付される。症例やデータの客観的でない部分も指摘される。そして、データの解釈を超えた理論的言及になりそうになると、そのたびにふわりとつぎの話題に逃れてしまう。自前の理論を展開することよりも、「科学的」であろう(イデオロギー的ではあるまい)とする禁欲的な強い自制が、そこに感じられる。
第3に、文学と政治をつなぐ中間の領域として、心的現象が構想されていること。
文学や芸術の描く世界は、個々人が別の誰かと取り替えられない個別性をつきつめるなかで、人間の真実を明らかにしようとする。政治は、人びとを集団としてとらえ、そこに共通の課題と意思決定を設定しようとする。吉本隆明氏は、文学と政治という両極の課題をともに引き受け、それを科学の方法論でもって架橋できないかと考える思想家だった。そこで文学と政治の中間に、個人の感覚や思考や観念をのこらず含み、しかも誰にも共通する普遍的な原理を取り出すことのできる、心的領域を設定したのである。医学や人類学は、個体差を無視し、普遍的な法則を取り出そうとデータを扱う。こうしたデータを組み込む『心的現象論』は、文学作品に対する批評の根拠となりうるとも考えられていたようだ。ただし、文学に関連した議論はあまり展開されていない。


素材に触発されて

では『心的現象論』は、どのような議論を展開したか。
心的現象の下部は、生命現象の物質的プロセスが支えている。このプロセスが「原生的疎外」をとげたときに、心的な領域があらわれるという。いっぽう、心的現象の上部は、明確な構成をもつ観念や言語表現の領域、対幻想や共同幻想の領域だと想定されている。それらにはさまれた領域が、心的現象の領域だ。
目次をみると、まず「眼の知覚論」が論じられ、「身体論」では障害を、「関係論」ではうつを、「了解論」ではさまざまな了解のあり方や、原了解、民族語の原了解が扱われる。心的現象を成り立たせる条件が崩れるとき、障害や欠損というかたちで、心的現象の機能や構成が逆照射される。そうやって、心的現象のさまざまな側面が考察されていく。ただそのテキストは、あらかじめ明確な内部構成をそなえた構築的論述というよりも、たまたま入手した素材に触発されたランダムな試行の連続、という印象を与える。
30年あまりにわたる執筆を通じて、『心的現象論』の意義もまた、少しずつ変化していったと思われる。心的現象を論じうることを、実証し、その重要性を示すこと。この突出したテーマは、連載が始まった当初にもう達成されたのではないか。すると、それに続く探究の連続は、心的領域が誰の手によっても論じ切られたことのない、特異な領域であるという吉本氏の重みづけを、読者に伝えるためのものであったように思われる。


逆説と感じさせずに

心的領域は、そもそも言葉にならない領域である。それを言葉にすることが、『心的現象論』である。この逆説を、逆説と感じさせないでテキストに編みあげていくところは、フロイトやポストモダンの論者たちと重なるところがある。そしてこの探究の過程に、神秘的な要素がひとつもないことが、この論を確かで大きな存在にしている。
吉本隆明氏の関心はつねに、言葉にならないものが言葉と接触している、その境界に置かれている。眼の知覚もしかり、うつもしかり、民族語の原了解もしかり。言葉と言葉でないものとの関係に照準している点は、『言語美』のモチーフとも連続する。
『心的現象論』は、日本でかつて書かれたことのない、類例のない書物だ。強いて探せば、ホッブズ『リヴァイアサン』の第1章や、ヒュームの『人間本性論』やバークレーの『視覚新論』、マルクスの自然哲学などが思い浮かぶ。本書をいまあえて世に出した、山本哲士氏以下の文化科学高等研究院出版局の皆さんにも敬意を評したい。


(橋爪 大三郎 氏 東京工業大学教授・社会学専攻)

吉本隆明を読むに戻る