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社会主義と社会主義国と超資本主義

吉本思想におけるロシア・マルクス主義批判は、社会主義国への批判であり、社会主義の肯定にもなっている。
わたしとの対談において、社会主義と社会主義国との混同があるというのが、ひとつ大きなテーマであった。
氏は、その後、消費社会、高度資本主義を肯定的にみようと、日本はマルクスがイメージした社会主義に近いのではという認識になる。ロシア・マルクス主義、社会主義<国>、スターリニズムへの批判の徹底さにたいして、現在の高度資本主義を肯定するそこに、物足りなさを感じた人も多いとおもう。
わたしは、産業主義経済・産業社会は未熟であるとするため、そこへの批判に容赦がないが、消費社会は両義的にみるというゆるやかさになる。しかし、社会主義国は社会主義理念に基づくということにおいて、社会主義批判をわたしは徹底する。社会主義の現実は社会主義国において出現したのであり、それはマルクス主義の哲学による国家独裁であることは、否定しえない。<社会>を優位に立て、個々人を劣位におく、そのシステムは容認できない。それが、日本における社会主義ならざる<社会>イズムになって量産商品市場の規則主義と一致している。ここは、克服されるべきだ。

最近、吉本さんは、自分が肯定してきた現在は、やはりよくないという実感をもらしているが、現在<社会>に吉本思想は優しいのだが、本質論を適用していけば、わたしのようになるはずだ。だから、氏はわたしの考察には耳をかたむけてくれる。社会主義という共同幻想の限界批判が、場所共同幻想の創出設計へとなる、そういう認識にである。そして、商品社会ではない、資本の場所というわたしの認識である。わたしは、キューバ社会主義研究を修士論文で徹底したゆえ、社会主義運動のダイナミズムとその限界をそれなりに感知しえている。

ゲバラやカストロ、そしてカミロらの行動はきわめて個人的であり、言説が集団的になっているという限界への自覚である。そして資本主義・自由主義が個人を重視しているようで、実際は集団性や組織性を優位にたてているにすぎないことも。これをliberal individualismだと、世界線は批判するが、それは<社会>イズム批判が不在であるからだ。「重層的非決定」という思考と非権力の思考を、吉本思想からひきうけていくことが、「現在」への批判肯定性にリンクする。本質論なくして社会論はない、ここが社会科学一般がつまらなくなっている因である。
そして、アジア的ということにおけるレーニン批判で、こうした点は一気にクリアになり、本質と歴史と社会との亀裂がない、固有の吉本思想になっていく。初期条件、前古代、言語が、心的現象までふくめて構成される。深みにおいて吉本現在論を読んでいかないと、ものごとを見抜いていく論理が見ないことへと誤認するだけになろう。

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