トップページ 山本哲士のページ 心的現象論

4.

心的現象論

情況の編集長であった、古賀氏から、吉本論をアソシエでやってくれといわれ、連続講座をもった。そのとき、「心的現象論」を『試行』からコピーして、10部作成許可をいただき簡易製本してつかった。受講者が足らない部分をあつめて協力してくれた。毎回、執拗に読んでいきながらレクチャーしていった。
その意味がはたして受講者にもどれほどわかっていたことか、しかし、くいついてくる努力は皆されていた。吉本さん自身もいっているよう、ある意味単調な禁欲的に淡々と論じられていく、そこから熱を感じ始めたのが、了解論の中途であった。歴史論を超えていこうとする迫力である。これが、前古代、初期条件、となって深化されていく。1978,79年頃の思考である。「了解の様式」前後である。ヘーゲルを意識的に超えんとしているのが、伝わってくる。自分でいうのもなんであるが、「心的現象論」を、吉本思想全体において読み込んだのは、それがはじめてであったとおもう。誰もしていない。「序説」でとまっている。受講者たちも、もうこの辺でいいと止まったが、わたしは最後までノートし読み込んだ。あと、3回以上はよまねばならないと、その時感じた。並大抵のものではない。

このまとめが、核となって、『戦後55年を語る』の連載となり、今回の決定版にまでいたる。書かれたほうはもちろんだが、こういうものがまとめられるのもたいへんなことであるのだ。古賀さんもある意味最後の編集者のひとりであったとおもうが、はっきりって、心的現象論をまとめうる力量のある編集者は、高橋輝雄氏しかいない。

吉本さんのそばには、すぐれた編集者たちがいた。しかし、誰もできなかったのだ。吉本さんも渡す気がしなかったのだろう、わたしたちにゆだねられた。わたしはわたしで、既存の出版界全体にいやけがさしていたので、自分で作っていくという道を開き始めた。

山本一派が云々などとわかったふりをしている輩たちがいるが、わたしはひとりである。企業にも、左翼にもはびこっている仲間主義が大嫌いである。学会アカデミズムなど学生の時からけっぽったままであるし、その社交的な構成が肌に合わない。一人でやってきた。個々独立的な固有の学者としかつきあわないし、徒党なんぞもくまない。きちんとした仕事をする、そこを回避しない人と、あることをなすためには一時協働する。

こういうスタイルは、わたしなりに吉本さんから学んでいたのだとおもう。楠元氏から言われた、山本は吉本思想を指示表出においてインターナショナルな文脈の場で創造していると、納得だ。自己表出的に吉本思想をもっている人はわたしの吉本論にはなじめないのだろう。しかし、その方が、吉本さんも安心しているのではないだろうか、主義者には絶対にならないから。ジョン・アーリからロンドンでいわれた、おまえはよくこんなにも広く、しかも彼等と議論し合える水準で読んでいるなと。このときは、ロジェ・シャルチエ、ポール・ラビノウらがいた。わたしが、直接ネットした世界の学者たちの質に驚いていた。英語版で、出した。日本では、だせない。流行主義でしか思想も対処されないからだ。

山本哲士のページに戻る