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吉本隆明さんとの交通『戦後55年を語る』

文化科学高等研究院(EHESC)で、パリ、ロンドン、ニューヨーク、ボストン、トロントと国際ミーティングをすすめていく中で、吉本思想の深い意味が、さらにはっきりとしてきました。
海外で一流の、しかし日本ではあまりに難解で高度ゆえ読まれていなかった方たちと対話しながら、吉本思想のみが対峙しうるという実感です。アジア的ということをまず示そうと「良寛」の英訳を、季刊iichikoの国際版でこころみました。これは、海外の連中にはたいへん関心をもたれました。
自分は彼らのものを読める、しかし彼らは吉本思想も西田思想も読めない、これはわたしにとって大きなパワーになりえたものです。わたしなりの理論構築がなされていきますが、日本語で書いてももう対象は日本ではなく、世界において考察しています。
1995年、戦後50年を吉本さんに語ってもらいながら、吉本思想を総括しなおそうと、EHESCで予算をくみ、毎月の聞き書きをはじめたのです。それを、週刊読書人で掲載もはじめました。思想上の1大プロジェクトといえます。吉本さんは毎月EHESCにこられて、わたしたちが総出で対応していきました。
わたしももう一度吉本さんを読みなおしはじめました。一時疎遠であった吉本さんと本格的な交通がはじまったのです。わたしの位置づけももう、世界で位置づけていますので、吉本さんも力がはいりました。
編集の武氏も大変な作業です。毎週の掲載でした。これは、テープとビデオで全記録とってあります。1年がかりで第一段階がおわりました。

この連載を本にしたいといくつかの出版社がもうしでてきましたが、売れるぞということが優先され、語った記録を史的表現として残すということを明らかに考えていない、出すなら全部載せるのが最低限と言うと皆ひきさがりました。

三交社の高橋さんが、12巻でいこうと決断され、吉本宅に訪れたのですが、吉本さん自身売れないですよと乗り気でなかったものの、わたしのほうから資金をふくめ最低限のことはしきるということで容認いただき、さらに毎巻時局的なことを聞いていくというスタイルをとって、吉本論もいれてだしていくことにしました。
このころから、信頼関係が深まったという実感をわたし自身おぼえ、責任を強く自分に課したものです。この刊行準備をふくめて5年たち、戦後50年ではなく、戦後55年を語るとなりました。12巻の刊行も3年がかりになった、1大事業です。吉本論も多様に展開していきたかったのですが、書き手がぐちゃぐちゃとあまりにいうので、はっきりいってうんざり、書きたい方に書いていただく、したいことをしていくという路線にしました。とくに古い方たちは、意義はなんだ、目論見があるだろうとか思想ぶるだけ、そんな中で三上さん(味岡さん)が連載するというのでお願いしたことが、大きな成果になったといえます。また、電話だけでしたが、断られたものの清岡卓行氏とのやりとりはとても好感をもって記憶に残っています。あとは、不快きわまりないといったところでしょうか。いまごろなぜ吉本だ、なんぞというほうけた人もいました。
これからが、吉本思想だというのに・・・です。この一連の聞き書きで、吉本思想をいかにわたしたちが了解しているか、それは吉本さんに伝わったとおもいます。高橋順一、内田隆三、福井憲彦の協力をえてなされました。また、中途から、心的現象論の再掲載を原稿整理をかねて高橋輝雄がはじめました。


『戦後50年を語る』のとき、めずらしい坊主頭の吉本さん。
これで、親鸞を語られたのだから。
(EHESCにて、1995年)
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