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吉本隆明さんとの交流

次に吉本さんと交流がはじまったのが、プラグを抜くシリーズです。
のちに、「超西欧的まで」の書にもおさめられた、講演です。「性・労働・婚姻の噴流」としてまとめたのですが、吉本さんは何枚も手書きの模造紙いっぱいに描かれて熱い講演をされました。
わたしは、対幻想と対関係とを区別し、ジェンダー概念の社会的な規定性をいかにくみこんでいくか、そして、吉本さんの柳田國男と高群逸枝との差に留意しながら、史的な規定性をいかに設定するかに組したときです。
ジェンダーは差別思考だと、元気な方がいましたが、その方ものちにジェンダーだと論じ始めていきますが、わたしが驚愕したのは欧米ではあたりまえのジェンダー論が日本ではまったくこなされていなかったことです。
フーコーが死亡し、急遽、フーコー追悼の書を、福井憲彦氏たちと編集しました。文化主義的にしか理解されていなかったフーコーの権力論と歴史論を中心にして編集しました。「フーコーがやっとよくみえました」という葉書を吉本さんから直接いただいた、それがとてもうれしかったことです。いただいた手紙はこれが最初で最後です、吉本さんもよほど興奮されたようでした。

雑誌をつくろうとして、この出版社とは縁がきれていきましたが、福井憲彦氏と日本エディタースクールで、「actes」を共同編集していくことになります。日本エディタースクール出版部は、「列島の文化史」「社会史研究」を刊行しており、現在思想ということで「actes」をだしました。

しかしながら、ここでは吉本さんとの仕事は実りませんでした。まずは、わたしの教育論を批判した評論家がおり、吉本さんは給与をもらっているわたしよりも書いて食っている評論家たちを優先させるという思想性をつらぬかれました。また、もうひとつは丸山圭三郎さんとの対話を設定したのですが、吉本さんはその言語観にまったく同意しませんでした。表出論がない言語論への否定的な態度は強靭でした。
わたしは、丸山さんを新たなソシュール理解において評価していましたので、ここでも食い違いがおきました。また、イリイチが来日して、吉本さんとの対話を設定されたようでしたが、わたしとは決別していた出版社でもあり、媒介にはいることもなく、わたしのイリイチ理解には共感くださっていましたが、直接のイリイチには拒絶反応をもたれたことが、わたしに伝わってきました。わからないでもありません。
わたしは、イリイチとも疎遠になっていましたから。わたしは思想家に便乗はしません。自分が評価した思想・理論とは徹底して組み合いますが、その人物におべっかつかったりイエスマンになったりはしませんし、自分には必要ないことです。日本は、とりまき連中がいかにもエージェントぶりでくっついていますが、そういうのはわたしには肌が合いません。ブルデューもそうでした。
わたし自身は、日本の停滞した土壌にうんざりしはじめ、徐々に海外へ拠点をシフトしはじめていきます。文化科学高等研究院を組織しはじめました。やがて、イリイチからは、「孤独だ、ドイツにこないか?」と手紙をもらいましたが、わたしの海外での動きをきいてのことのようでした。しかし、わたしは、なんの返事もしませんでした。このころ、しばらく吉本さんとも疎遠になっていたといえます。

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