明治期の言文一致を見直す作業はまだ終わっていない。そこでなされた言語転換は、表象では文語から口語への大きな転換であったが、本質的に日本語の述語制様式があったがゆえに、西欧的移植が可能であったことで、本質は変わっていないのだ。だが、ねじ曲げられた文法は、根元からの組み立て直しを要されるし、コプラ問題の哲学的な了解さえまだなされないままである。
言語転換とは、何を意味することであるのか、それ自体を問う次元へと考察は深まってきている。この問題は、日本語に限らない世界的な問題であって、バナキュラーな言葉がナショナル・ランゲージへと構成された世界的な文化変容の問題に関わる。金谷武洋氏による日本語教科書の英訳を世界へ向けて連載発信する。また、近代 二元論が問われてもう数十年が経ているが、代わるものは一元論ではない、哲学・言語地盤そのものの普遍的な見直しになる。
鋭利な西欧言語理論もたどりつきえなかった地平に日本語が有している〈述語制言語〉の問題があるのだ。それは、言語だけにとどまらない、科学技術、資本経済、環境設計、統治など、学術と実際生活世界のすべての領域に関わっていく。ただ、日本の歴史資本にその遺産がはっきり可能条件としてあることだけは確かである。それを、一つ一つさぐりあてながらすすむとき、近代エピステモロジーの転移が着実になされうることが要されるため、探究は非常に困難な次元へときているが、わたしたちが答えを作り出していくほかない。
コロナ禍を契機に、一挙に変換があちこちでなされていくであろうが、その基盤は「述語制」の界域から開かれる。医療行為それ自体と医療化との混同が、世間を混乱させているが、だいたいにおいて主語制言語思考と社会規則の誘導によって、そこは乗り越えられない。医療化は、愚かな道徳化まで生み出してしまう。医療現場で命がけで闘う人たちを尊敬こそすれ排除などしてはならないし、感染者もまた犯罪人ではない、ウイルスと闘ってくれているのだ。「感染」という事象は、未知なるものゆえ、多くの不安を心的にまきおこすが、病に立ち向かうのは個々人の自律性である、規則はなんら解ではない。近代化は、人類の歴史発展において不可避のことであったが、もはやそれでは困難さを克服できない夏へと、人類は達してしまった。酸素濃度の希薄化は、明らかに環境変動からもたらされている。ようやく、脱炭素化が国の方針で出され、またSDGsが世界では提示されている。
言語、環境、経済、そして文化は連動している。【文化学.doc】として、特集をなんらかの形で継続的に考察していく方法をとる。もう、近代的な分類化や分節化で、対応はしえないからだ。 知的資本は、知識の網羅ではない、自分の自分に対する自己技術である。知識に対する知的作用である。それは、自らが語り書いている自分の言語への再自覚からはじまる。
|