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2018年7月発売 
128頁 
定価:1,500円(税別) 





  人は社会の中で生きると同時に社会の枠を外れて存在もしている。「社会」は高々、近代西欧の四百年で作られたものでしかないし、日本ではここ一五〇年で形成されたものでしかない。人間は、男女になること、社会人間になることにおいて欲望・快楽・享楽の心的な構成を個々人において〈共同的なもの〉〈対的なもの〉との関係としてそれぞれ疎外する。その歴史変容から本質的なものが規制されることもあるが、本質が歴史的変容を規制し続けてもいる。言語でいえば、文語の助動辞が口語の助動辞に転換されるも、心的表出が見えなく構造化されたままで、言表表層が変わったに過ぎない。だが、言表の配置体系が変わることで概念空間は大きく転移していく。それにともない心身の構造やアクションも変わっていく。
 ラカンの思考は、ランガージュの心的本質を捉えたものとして、現代資本主義世界の本源を根源から考察し得る可能閾を明らかに開いている。その晩年のトポロジー的考察は、多様な応用がなしうる社会科学的な領域を開いており、既存の社会科学の概念空間を転移している。一見単縦なトポロジーに見えるが、思考されていることは深い。ラカンの知的資本を既存の知識に対してクリティカルに応用していくことで、時代の隠れた本質の層が浮き出し、かつ個々人の固有な存在構成が明証にされうる。ラカン思考なしの現在論は無効であると言い切ってもよいほどの素材が、そこにはある。
 ラカン理解をラカン自身へ正確に返していくと同時に、ラカンから精確に離脱することが同時にもとめられる。世界的に、ラカン解読はまだまだ未完である。そして、日本のラカン了解水準は、世界的に比しても高いのは、ラカンが突き当たった壁は西欧ランガージュの主語制の限界で、その先には述語制が開かれることであるのだが、日本には述語制ランガージュの本質があるゆえであると思われる。主語制から述語制の世界は見えないが、述語制から主語制世界は透けるように見えてくる。ラカンは、日本の本質相を見抜いてさえいる。日本語の述語的言語世界とラカンとを対象化することが、新たな思考閾を開いていくのは間違いない。そこには、西欧規準とは異なる普遍閾が潜んでいるはずだ。
 マルクスの剰余価値に対応させたラカンの〈剰余享楽〉は、心的なものの社会的疎外の中での本質層を再考させてくれるのだが、両者の概念空間は等価ではない。そこに〈現在〉の裂け目が浮上しよう。今回はsinthome を軸に、優れたラカン研究者たちからの考察を新宮氏と松本氏の協力をいただいて構成した。ラカンの思考ベクトルは近代思考のベクトルと逆向きになる遡及的思考であるゆえ難解に感じられるだけで、ラカンほど明晰な思考はない。今回はまだ緒口に入っただけであるが、機会あるごとに考察を深めていきたい。
 書籍内容
▼新宮一成「剰余享楽のある風景――ヘーゲル、ラカン、マルクス」
▼上尾真道「サントームについて――ラカンとジョイスの出会いは何をもたらしたか」
▼河野一紀「ボロメオ的身体と他者たちとの紐帯」
▼山本哲士「ではない」ことの存在:ラカン理論のsinthome へ(1)」
▼岡田彩希子「生きることの空白と目覚め――ラカンの対象a概念と産出物としてのその運命」
▼古橋忠晃「ラカンの観点から見た、現代社会の病理の一つである「ひきこもり」について」
▼松本卓也「享楽社会とは何か?」


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