映画は、感覚的運動や時間運動の解析で尽くされるものではない。映像と言語と音がおりなす総体には、表示されていながら、語られていない意味作用・意味するものがあって、意味されたもの(シニフィエ)になりえないシニフィアンスの存在がある。その本質相が、映画を、いかに商業的・経済的に成立が困難になろうとも、またゲームやウェッブが発達しようとも、なくなりはしない文化愉楽をわたしたちに供しつづけている。このトータル芸術は、あらゆる可能性を表出している。
映画は、否定を描けない、この意味は大きい。そして、いかに反復されようとも差異の斬新さがつねに出現する。そして、個々人の「好み」と「嫌悪」は、欲望の襞をこえて、無意識と記憶の享楽において、個々人を領有している。それは、映像技術の発展という次元をこえて働いているものだ。観る者にとって、徹底して個人的であると同時に普遍的なのだ。
西部劇、フィルム・ノワール、フリッツ・ラング、と本誌でいくつか特集をくみ、わたしたちは語り合いながらまたいくつものすぐれた映画研究を掲載してきたが、まだまだ語り足りないところがあり、対象やテーマをかえて、愉しみながら考えていきたい。
個人的であるが、わたしは骨折して動けない日々をよいことに、高倉健・藤純子の任侠映画をすべてもう一度みなおし、かつて自ら没入した心的根拠をさぐりながら同時に折口信夫のいう「ごろつき」(「もののふ」の根源)の文化的民俗の意味を日本心性として考証したが、内田隆三氏はシャーロック・ホームズ研究をもってホームズの映画を論じてくれた。小松弘氏は、映画総体のプロ中のプロであるが、映画専門外のわたしたちとの交通を意味あることとしてつきあい続けてくださっている。他の場所ではみられない映画論議になっていると思う。
金谷武洋氏と浅利誠氏のモントリオールとパリからの日本語論は、回をかさねるごとに本格的なまったく新たな日本語研究となってきている。
日本文化の固有性の普遍は、述語制にあることは確実なことで、その言説生産がただ要されていることである。
言語、芸術、技術においての文化学的考察は本格的な次元にはいってきているが、まだまだすべきことが山のようにある。
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