文化科学高等研究院出版局(ehescbook.com)の書籍を紹介するページです。
 トップページ >> 書籍紹介 >>述語制の日本語と日本文化



2015年10月発売 
128頁 
定価:1,500円(税別) 





 「述語制」の論理、文化世界は、言語学をふまえながら、しかし言語学を断ち切っていく閾へ開かれねばならない。それは、まさにラカンが隠喩・換喩をヤコブソンらの言語学に依拠しながら、その言語学を断ち切って、父性的隠喩のディスクール論へと無意識の精神分析を開いたように、継承と切断の飛躍を要される。和辻哲郎や廣松渉の日本語論は、主語制命題形式言語への哲学的堕落であった。主語などない日本語の論理は、述語制の閾においてしか開かれないのだが、それは同時に言語学を断ち切ることなしにはなされない。この難しさに、これまで人々は立ち向かってこなかった。だが皮肉にも、主語や助詞や助動詞などをたてる言語学者による研鑽をふまえていかないと、また主語制言語によっての西欧的哲学思考の研鑽をふまえていかないと、述語制言語の閾は開削されないのだ。だが、日本の道具技術や絵画芸術は、結果として述語表出をなしえているゆえ、美を固有に創造してきている。排除の論理によって、学問はひらかれえない、意見や考察を異にするものごとの相反性の共存協働によってしか、新たな地平は開かれない。
 「第一次世界大戦で、日本はイギリスと戦った」「第二次世界大戦で、日本はイギリスと戦った」という、後半が同じ文は、意味がまったく反対になる。前者の「と」は「一緒に」であり、後者の「と」は「対して」である。これを、日本語はあいまいなどとしてきた過ちに対して、「と」の助辞論理の高度さとして理論解析していかねばならない。「トンネルを抜けると雪国だった」には、どんなに説明されようとも、主語は記述されていない言語事実である。「一杯飲もう」には、「酒」という語は記されていない。ヤコブソンのいう失語症は、述語制言語表現になっている。さらに、「赤頭巾」の名は誰しもがしっているが、その本名は誰一人知らない。雨がしとしと降っている、雨がざあざあと降っている、その「しとしと」も「ざあざあ」も、音自体ではない、擬音語である。このオノマトペは、いまや臨床医学でも診断手段につかわれはじめている、頭がずきずきする、頭ががんがんする、胃がきりきりする・・・。「喉から手が出る」というが、実際の手がでるはずはない。円山応挙の絵が「写生画」といわれるが、彼が描いた滝の水の流れも、松の木も、そんな実際の姿・形はどこにもない。などなど。
 日本の和時計には、1、2、3、10、11、12の文字は無い、四五六七八九だけである。夜明けと日暮れを規準に、時が分割される。したがって、冬の一刻と夏の一刻とは、物理的時間の長さがちがうが、生活時間にあっている。不定時法である。物理的時間と自然環境時間とはちがうのだ。それを自動的に機械につくりあげた日本の技術には驚愕させられる。菊野昌宏氏は、和時計を腕時計としてすべて手作りでつくりあげた、スイスの独立時計師協会会員である。その手仕事の世界は、驚異的である。いまだに、「正午」(午の刻)という、また「お八つ」という、時代劇のはなしではない。「お江戸日本橋七つ立ち」と唄われる。場所に合った機械が、暮らしをいろどりはじめるのは、もはや時間の問題でしかないだろう。場所環境にあった、非分離の成熟技術は、述語技術からなされうる。和時計の探究についての特集を、近日準備している、そこから学ばれうることは深い。世界で唯一の環境時計を日本はつくりだしていたのだ。
 おびただし述語制の文化が、日本だ。客観でも主観でもない次元が、あちこちに開かれつくられていた。日本を日本それ自体として了解していくために、本誌での述語制の探究ははてしなくつづけられていく。
 書籍内容
▼述語制の日本語が示す非分離の思想
金谷武洋

▼助詞ハと日本語統語論をめぐって
--------モントリオールで出会った日本語論
立花英裕

▼“和時計改”の述語文化技術:独立時計師 菊野昌宏氏に聞く
インタビュー/山本哲士、編集部

【プロブレマティーク2】
▼主語制言語と述語制言語との対比
山本哲士

▼まなざしの歴史
楠元恭治

▼ 4人のエスピリトロンパ(2)
--------日本におけるオクタビオ・パスの知的反響
阿波弓夫

【カラー特集】文化技術
和時計
独立時計師 菊野昌宏の世界

【iichiko note】
里帰りの場所
河北秀也
<書籍紹介トップに戻る>