日本語に主語が無いという一部西欧規準からの判定ではなく、英仏独などの西欧語には主語があるが、「日本語は述語言語である」という考え方=概念空間をしっかりもたないと、日本語だけではなく日本文化の理解にいつまでもたどりつかない。しかも、主客分離は、西欧でさえ近代現象であって、ものごとの本質は、主客非分離の述語制にある。この普遍本質の明示に日本語・日本文化は、世界寄与しうるということだ。
本誌でかつて特集した「金谷武洋の日本語論」は、三上章、佐久間鼎、そして松下大三郎の日本語論を読み解いていくうえでの規準であるが、そこにこの春、藤井貞和氏による『文法的詩学その動態』(笠間書院)が刊行され、「助動辞」「助辞」の古典をふまえた文法体系が提示されたゆえ、さっそくお話を伺うことにした。金谷氏と藤井氏との対話を試みたかったのだが、金谷氏からは論稿をいただいた。いつか、対話を実現させたいと思う、画期的なことになろう。
そして日本語には、どうしても漢字がはいる、その漢字のあり方の意味を、斉藤希史氏からうかがうことができた。漢字研究の到達地平が明示された『漢字世界の地平:私たちにとって文字とは何か』(新潮選書)を主に語っていただいた。この三氏から、「日本語」を見直していくと、わたしたちは日本人として日本語をどう考えていったならいいかの正確な方向性が定まりうる。ようやく日本語とはいかなる言語であるのかへの探究が、まっとうにはじまってきたといえる。実は、それほど遅れているのだが、西欧言語論への不正確な認識と日本語への恣意的すぎる探究がなされてきただけの次元が、言語哲学の不在からうみだされていたのだ。日本哲学者たちは、日本語言語へのあまりの粗末な無理解さから、日本を考えていたにすぎない。西欧哲学の翻訳は、ほとんどすべて無効であるとさえいえるのも、主語述語コプラの命題形式構文などは、日本語構文にはないからだ。そのトランスの幅で、未消化のものがありすぎる。それは、科学や技術の次元にさえ反映されてしまっている。これらに気づかされたのは、本誌が英語版を刊行していたとき、吉本隆明氏の良寛論や藤井貞和氏の源氏物語論をネイティブな方に英訳していただいたときにおきたことからであった。
にもかかわらず、日本は述語技術、述語文化を、述語言語とともに行使しえてきたのだから、いかにそれが根深いかである。ただ対象化されえていなかっただけで、述語言語を正確につかってきたのだ。ところが、主語述語の一致が不可欠だと思いこまされてきた150年近くにわたる近代化蓄積のなかで、いま若い人たちは、真面目に主述一致が真実だと思い込んでしまう言語概念空間へ布置されて、たとえば「私は日本を良くする」「私は世界の平和を実現する」といったビジョン・理念的なことに、「私」主語としてそれは実際に自分ではなしえないから、嘘の言表出になってしまうと、自己を不能化させてしまう言語概念空間へおかれてしまったようにみえる。「私〜」などの人称も主語も無いのに、無いものを規準に考えてしまうからだ。述語制をしっかり自覚してとりもどさないとならないのだが、同時に述語制のかんちがいから危うさもうみだしてしまう次元もある。日本語をしっかり自覚して、その述語言語概念空間と主語制概念空間とを識別して、双方を対象化しうる位置にたつことだ。倫理や責任は、さらに科学や技術や経済も環境も、そこからしか行使されない。
日本語は、実に高度な言語体系である、論理性 があいまいな言語などではない、非常に論理的な言語である。
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