文化がいよいよ大きな意味と力をもつ時代へとなってきている。
大転換期が、本格的になってきたのだと思う。
こういうとき、文化をアクチュアリティのほうへ急速に近づけて、動きへとはいっていくか、それとも、もっと根源にまで深く沈潜して文化の力をさぐっていくか、その分岐に直面する。本誌は、躊躇無く後者を選ぶ。それが、前者の動きが、軽みへすべらないことへ寄与していくと信じるからだ。ある意味、そうすることで、動きへの可能条件の道を開いてきた本誌である。ホスピタリティが、おもてなしと並んで連呼される時代を、本誌はどこよりもさきがけて、切り開きつつその地盤をさだめてきた。それを、たしかなものにする、西欧的なものとアジア的なものを、民俗・心性・環境から「社会なるもの」へのクリティカルな考察の先へと探究してきた。日本の深い文化技術の閾は、ずっと20年以上にわたってさぐってきた。
世界が変わるとき、言説の生産が、それをリードし、たしかなものとする。その言説はまだまだ不十分であり、近代の黎明期に比してあまりに少数である。情報過多のなかで、文化の本質を領有することは、まだほんの一部にしかなされていない。起源への回帰ではない、思考されえないものへのまだまだ深い沈潜が要される。価値や意味へと表象される次元に、文化はない、もっと深くにあるものだ。言語にひそみ、身体へと構成され、心的なもの、情動・情緒、感覚にはりついている。それを〈もの〉であると感知しているが、〈もの〉を対象へと理論生産したとき、こぼれおちてしまうものに、どう近接していくかである。分離された自然へ帰ることではない。古代からみると、近世の言説はあまりに過剰であり表層である、アジア的、ラテンアメリカ的なものからみると、西欧的なものの精緻さやアメリカ的なものの技術的先端性は、あまりに小さい。わたしたちは、まだまだ、古典や世界から学んでいかねばならぬことがたくさんある。
マルクスは、人間は社会的諸関係の総体であるとしたが、わたしたちは人類・生命は、文化的諸関係の総体であると言い換える。しばし、認識や理をこえるものの閾へと静かに沈潜していくことにしよう。近代西欧的な枠組みは、もうはずしえた。ひたすら、存在の本質へと歩んでいきたい。それは、享楽の閾、感覚の愉しさの閾にある、古来からかわらぬものにある、水のやさしさと怖さにふれてあるもの、生死の境界のかなたにあるものだ。小さな文化として生存にきざみこまれて有る、一輪の花の幻の彼方にある。子犬をだきしめる、そのぬくもりのなかにある、などなど。この「等々」を、たしかな手触りにおいてさぐっていくことだ。
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