教育する・学ぶうえで必ずしも学校は必要ではなく、治療・治癒するうえで必ずしも病院は必要ではない。いや、学校が教育できなくなり、病院が治療できなくなってさえいる。商品サービスしているだけだからだ。
2歳にもならない愛犬に、癌が発生した。町の医院から紹介されたA大学動物病院で診断し、その高度な細胞解析データの結果がとどかない内に、わずか数日後に死んでしまった。何のための分析というのか。それから4ヶ月後、同じ日に生まれたまったく元気だった姉妹が、突如また同じように小さな癌らしきしこりができた。診断の予約がとれるのに1週間(それでも早い方)、その間の3、4日であっという間に大きく腫れて急に元気がなくなった。体重が4kg急速に減少した。病状が同じ、しかも姉妹、あきらかに同じ遺伝的癌であり、分析はいいからすぐ治療にあたってくれといっても、麻酔をかけスキャンし分析しなければ治療はできないという。分析データが出る前かに死んでしまうんだから、まえの姉妹のデータにもとづいてしてほしいといっても、個体がちがうのだからできないという。しかも麻酔は死んでもしかたないという誓約書をとられる。生体に危うい負荷がかかるからだ。それはとばしてすぐ治療へはいってほしいというのだが、分析無しにはできないという。治療しないのだ。さらに放射線療法のまるで松竹梅のような、放射線量の選択があって、どれにするかコストとの絡みがあり、しかもどれも治る保障はないと平然と言われた。悲しみとともに怒りがこみあげてきた。科学の規則的な遂行において、「治療」は一番あとまわしにされている。科学の冷たさ、そして治療の商品サービス選択である。分析は個体固有だといっていながら、治療選択は個体無視の画一規範だ。発生直後なら、なんとかしえたかもしれない。1週間待たされ、あげくにまたデータ解析等していたなら、あきらかに衰退し死していく。命よりデータの正確さが優先されている。一見患者のためのようで、実際は自分たちに不手際が無いように責められないよう防衛しているだけだ。「もういい!」と、愛犬をかかえるように病院をでた。涙がいっぱいあふれ、「ごめんね、ごめんね」と愛犬を抱きしめた。連おゲント超電波をあてられ、どやどやとたくさんのインターンがいた、こちらが立ち入れない向こう側で、検診でいじくられたのだろう、愛犬はぐったりとしていた。「あなたたちは医者ではない!治療していない!」、医療の本来の目的さえ失っている、とわたしは吐き捨てるほかなかった。
ホスピタリティとは、こういうことがなくなって、プライベートなものがパブリックな場で保障される道を開くことにある。個別個々への教育を可能にし、治療を可能にしていく、ひとりひとりの学ぶこと癒すことそれ自体を、最優先にして個別に対応していくこと、その可能状態をつくっていくことにある。彼らの哲学・科学はひっくりかえり、完璧にまちがっている。小さな一匹の愛犬、そして巨大な原発事故、同質の似非科学だ。ひっくりかえったまちがいだらけの仕方が、生命をむしばみ、生きることを守りえていない。彼らは悪人ではない、しかし、冷たい科学者・技術者だ。disablig professional(不能化する専門家)でしかない。環境や場所や個別生命体の不良設定状態を測定不可能だと排除して精密化を図るインテリ科学である。さらにその「善の機能」が悪魔にとりかこまれていると、ラカンは指摘している。
「いま、このとき、この場で、この人に」のホスピタリティの仕方において、ホスピタリティ哲学の閾を高橋順一氏が開いてくれている。ホスピタリティの理論、経済を開いてきたわたしだけではもうない、力強い協働者だ。「いつでもどこでもだれにでも」の個別不在のサービスでは、命は守られない。
癌に効くというハーブ療法ノニの仕方で、一日一日、愛犬をはげましつづけながら、死へむけていまを生きる。あんな彼らに大切な愛犬の命をあずけて、医療にさえなっていない近代科学技術での入院をさせてなど寒々しくてできない。高度な機械などない、あたたかい町の「ほんとのお医者さん」の補助を借りながら、一日でも長く、希望を失わず、絶望がこようとも、愛犬を抱きしめ、一緒に寝ながら、病と闘いつづけていく。愛犬の名はルビ、ルビコン川を渡るということからつけた。先に亡くなった愛犬の名はシャナ、盧遮那仏からとった。名は、すべてを語る。「生きよ、ルビ!」、つぶらな瞳がじっとわたしをみつめている、わたしもルビに生かされている。
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