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2012年10月発売 
128頁 
定価:1,500円(税別) 




 文学作品のなかには、作家が描き出す登場人物たちに、作家の〈心像〉が投射されて、それが想像力の核となって、表象されていくと考えられる。〈心像〉とは、本質的に、身体性や他者意図を排除した、作者自身のものでしかない〈心像〉である。たとえそれがあるモデルを想定したにせよ、作家が描くそのモデルへの〈心像〉は作家だけの像でしかない。それは吉本隆明が明示したように、概念的なものが感性的なものへと関係づけが転化され、間接的・多重的関係づけが直接的・一重的な関係づけへと転移されることにおいて表出していくのだが、作品/テクストの舞台で、登場人物たちは、直接的に一重化された自らの姿を、再び多重化させて、作品をおりなしていく。想像力は、二重の転移を構成する。その過程で、作家は、時代の相や歴史の相を、ひきうけかつ固有に表象変えしていくとき、文学作品は時代の証人的な軌跡を残していくのだといえよう。
 三島由紀夫が、相似表出の中で、類似表象を、対比と相反性のキャラクターとその心的内部での相互変容においたとき、そこに引き寄せられたものとこぼれ落ちたものとは、いかなる意味作用を、〈日本〉へ残したのか。戦後作家たちの多彩な表出の中で、問い直されてしかるべきであろう。それは、いまや時代の歩みの中で読まれてきた三島から、軌跡・痕跡の対象としての三島へと転じられているが、在る成熟の閾にあったと感じられていたものが、実はとてつもない未熟さの閾におかれていたにすぎない、という感想をわたしはもってしまう。それは、つかまれていない〈日本〉である。三島にかぎらず、戦後の現代作家たちは、総じて〈日本〉を歴史や古代の相で、現代に立って完全に近く見失ったという証言として痕跡を残してしまっている、という概嘆がぬぐいきれない。いま〈日本〉自体が根底から変貌しているために、不可避におきてしまう規制性でもあるのだが、それゆえ、丁寧な作品論がしっかりとなされるのを要請しているのだ。
 小説という〈心像〉をもとに構成される想像力の界閾に「肉体」はない。概念を肉体化してもそれは身体が排除された閾にしかない。そこから相反的に肉体閾のリアリティへと三島は疎外表出を自らに課していった。大江健三郎氏が、ニューヨークであったかとおもうが、三島のいるホテルに呼ばれて、ドアを開けたその瞬間に、裸体にガウンを纏う姿を示威したという話を、メキシコシティでレクチャーする氏自身から聞かされた、その〈心像〉がわたしには強烈に残像している。大江の作品は映画化しがたいが、三島の作品は映像化しうる。だが、そこには、〈信〉と妄執の同在から不信を内在化して屈折した主人公が、矜持をつらぬき失敗する、「清顕」に象徴集約された、知識と迷妄とが同列におかれる不可避性しかない、それがあの衝撃な出来事と重なってしまう、としてしまうのはこちらの偏見であろうか。
 ともあれ、諸氏の卓越した三島論をじっくりと読まれたい。
 書籍内容
▼ 三島由紀夫自選短編集『真夏の死』を読み直す  木村小夜

▼ 『潮騒』の語り手と戦後社会  杉山欣也

▼ 三島由紀夫が遺した戦中の怪奇小説
 ------未発表短篇「檜扇」にみる日本浪曼派への迂回  武内佳代

▼ 三島由紀夫と三輪山・大物主の〈場所〉神話  山本哲士

▼ 文学的生命論序説
 ------歴史的身体と言語  山崎正純

▼ 【自著を語る】
  『太宰治の表現と思想』 岡村知子

▼ 【カラー特集】
  〈織物の文化技術〉前編
  置賜紬

▼【iichiko note】
  日本食の場所 河北秀也  雑貨の場所 河北秀也
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