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2012年1月発売 
128頁 
定価:1,500円(税別) 
  
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 『日本語に主語はいらない』の書がでたとき、当然のことを語られているとしてそれを読まなかったのだが、『英語にも主語はなかった』を読んで驚き、あわてて金谷武洋氏の著書をすべて読み、「やっとまっとうな日本語論が出てきた」と興奮したものだ。三上章が明確に位置づきはじめた。そこで本誌は三上章特集(2006年秋号)を組み、氏にも書いていただいた。2011年夏に氏が来日されたときにインタビューをお願いし、その場で今回の特集を組むことをお願いした。想定以上の可能性が開けてくるのを実感したからだ。
 主語・述語の文法規定だけからでは、なにも始まらない、問題の深みは、超文法の主辞・賓辞のコプラ哲学を超える可能閾にある。西欧的哲学設定の狭さをつきぬけることだ。日本の哲学で、和辻哲郎もまた廣松渉もコプラから脱しえていないというより、はっきり言って日本語論が転倒している。そこでは西田哲学が無視されるか、誤認されていることが連鎖する。そういう地平が国文法と日本哲学とが合体して、日本の本質を見えなくさせている閾が固定されてしまっているのだ。日本・日本語を語るものが、日本自体を見えなくさせてしまっている、この構造化は超えていかねばならないのだが、それだけではない。述語制からのランガージュ論は、近代西欧の限界を超克し、新しい世界の設計原理の基礎となりうる。すでに佐久間鼎が指摘していたことであるが、ヘーゲルとカントであれ、近代西欧哲学の命題・コプラ構文は、主語なき日本語の英訳や仏訳・独訳などが不可能であるということだ。「AはBである」は日本語では命題構文とはならない、論理体系がまったく異なるのである。ニーチェさえ「主語」は無いことを気づいており、「エス」をもってそれを語り、それがフロイトの無意識論へと深まっていく。ラカンは述語論がないため「欠如」「喪失」「空」のロジックへとはいっていったが、これらは日本語のランガージュ論から解いていくことができる。日本文学の翻訳者たちは文学表現の翻訳不可能さに気づいていながら、哲学論理化・言語理論化しえないできた。こうした見なおしの基礎的かつ本質的な論述が、金谷武洋日本語論から開始えるのである。
 本居宣長や本居春庭の言語論は卓越していたが、近代明治で切り捨てられてしまった。それを回復していかねばならないし、松下大三郎、佐久間鼎、三上章、そして金谷の系を基軸にすえる地盤を新たに建設していかねばならない。言語本質論なくして、哲学も文化学も社会科学や科学技術論も、実は成り立たない。根源であるのだ。政治や経済もである。カナダで金谷氏が、パリで浅利誠氏が、卓越した日本語論を日本語教育の本質現場から論理的・思想的に文化表出されてこられた、それをしっかりと学びながら、数少ないが日本語学者や哲学者たちの協働を構成していくことが、これからの作業となっていく。これはまた「もの」の深みを見失って物体・実体とみなして「こと」をとりざたする転倒を超えていくことになり、「剣術」の「わざ」として本誌が探究していることにもむすびつく。
 これを機にして、世界線での協働仕事へと開いていきたい。日本の言語、日本の術・技、日本の文化は、「非分離/述語制/場所」そして非自己にあるのだ。近代西欧の「分離/主語/社会」自己を超えていくものである。
 書籍内容
▼ 【金谷武洋インタビュー】
  金谷日本語論のエッセンス

▼ 日本語の述語制:日仏語対照研究 金谷武洋

▼ 越境する三上章と金谷文法 浅利誠

▼ 日本の視点−人工知能研究者の立場から 中島秀之

▼ 比較思想から見た金谷武洋の日本語論 新形信和

▼ 日本語の主語、「は」と「が」をめぐって
  −「場所論」の観点から 岡智之

▼ 母国語と日本語への旅
  −金谷武洋氏との出会いを通して 加納由起子

▼ 日本語の述語制と「もの」ホスピタリティ:
  金谷日本語論の規準的位置 山本哲士

▼【カラー特集】
  〈鍛金・彫金の文化技術〉
  東京銀器 TOKYO GINKI

▼【iichiko note】
  スティーブ・ジョブズの場所 河北秀也
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