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 トップページ >> 書籍紹介 >>太宰治101 PART2



2010年10月発売 
128頁 
定価:1,500円(税別) 
  




 太宰治の文学は、あらゆる解釈の可能性へと放射状に開かれている。それは、太宰が、日本語のランガージュの表現可能性を、表象体系と近代人間主体のはざまにおいて、その双方に実定化されえない閾から表出しているからだ。話し言葉と書き言葉のあいだにおいて、語の表象と意識とを、同時的に表出しているのは、太宰ぐらいであると言ってもよいのではないだろうか。また、意識と意志のはざまにあるもの、思考しうるものと思考しえないもののはざまにあるもの、感じられることと感じられえないことのはざまにあるもの、ポジティブなものとネガティブなもののはざまにあるもの、あらゆる相反性の多様なはざまにあるものを、どちらにも実定化されず、固定化されずに、表現しきれていく、それが可能となっているのは、自己主体化されえない〈自分〉を見きれていたからだ。せまりくる、世間、至上主体、規範や規則の道徳、そして客観状況としての逃れ難いものなど、それらは、いずれも太宰を規制はしても決定づけることはしえなかった、太宰は、つねに、主体からも客体からもあふれだしていく。
 太宰は、人間が生きているかぎりにおいて、その人間そのものからあふれだす男女を見きり、感じきっていた、それが、太宰文学が、いまだに現在的であるゆえんであろう。それは、近代の中に在りながら、近代を超え出ていく。それゆえ、いかに語り論じ続けようとも、語りきれない、論じきれない閾へと開かれていく。人間という無いものが発明され、人間が消滅しない限り、太宰文学は普遍であり続けよう。近代自己主体から見れば、欠如ばかりのその存在は、しかしはるかに過剰であり、主体や自意識を超えている。
 日本の文学者たちは、日本語のランガージュが持つ述語的な独異性に、あまりに無自覚でありながら、しかし、それを美的に使いえている。そこには、述語本質の層が、つまり西欧哲学がつかみえない閾が、垣間見られているのだ。ここを、論理としてひらいていかないと、日本は主語・述語のコプラにつながれた社会を超えて脱出していくことはできない。主語は自己に在るが、述語は非自己に在る、しかも主語世界はあまりに狭い。
 社会は人を悪くする、そういう次元へ日本ははいってしまった、そんなとき、太宰の優しさ、醜さ、恥ずかしさ、悲しさは、人の述語存在を照らし出す。
 なんどもなんども、太宰特集はくんでいきたい。100年で太宰は、終わりにはならない。
 書籍内容
▼底が抜けた小説あるいは始まりの小説
 ---太宰治『ヴィヨンの妻』と現在 服部康喜

▼「駆込み訴へ」を読む
 ---山岸外史「人間キリスト記」との接点から 木村小夜

▼60年目の『人間失格』---パラテクストからテクストへ 斎藤理生

▼「狂言の神」を経巡る《間抜け》
 ---「私、太宰治」と〈芥川〉像の諸圏域 小澤純

▼自己意識と非自己:太宰治の哲学 (2)
 ---文学における〈自己表象〉という転倒〈下〉  山本哲士

▼【連載第3回】矢野雅文の「非分離の科学」の頁III 矢野雅文

▼シュルレアリスムとレアリスム合体の妙
 ---ブニュエルの描く夢と現実、聖と俗の世界〈後編〉 渡辺淳

▼ 【カラー特集】江戸指物

▼熱帯の場所 河北秀也
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